鬼哭
「聴こえたか? 鬼の哭く声が・・・」
心臓を貫かれたグレイは、再びその声を聞いた。
負けと死のイメージが頭の中でこだました時、その幻は消えた。 体も、刀も。
胸に残る刃の感触。 無意識に、唇を噛んでいた。
空はあくまで黒く、星屑が輝いていた。 もう少しで満ちる月が、いつも以上の明るさに見えた。 皓々と、皓々と。
夜風が長い髪をさらっていく。 汗を浮かべた、火照った体に心地いい。
そしてグレイは、風に倒されるように、草原に倒れこんだ。 夜露がたまり始めている草原は、夜風の様に心地いい。 空は遠く、風は遥か先にあって、手が届くようで全く届かない。
(また、負けたか)
グレイは既に気付いている。 幻が何者か、なぜ勝てないのか。
それはまるで、空をつかむように、届きそうで届かないこと。 夜のように暗く、それだけ錯覚は増して、心臓への痛みも増す。
歯軋りする。
勝てない。
悔しい。
夜の草原は風が紡がれ、夜の精が踊っているように感じ、それは蒼い深淵を思わせた。
もう何度目かも分からない敗北。
それは必ず夜に余韻を残していった。 鋭い悪魔の牙のような余韻を。
消えいく幻は夢魔のように、嘘の傷跡は本物のように、余韻の残る幻影の声は鬼の哭く声のように思えた。
グレイは宿に帰ってきた。 既に夜半は過ぎている。 旅の仲間も既に眠っていた。
誰も起こさないように、静かに部屋に入る。 彼らもグレイが深夜に部屋を抜け出すことにとうに気付いているのだろうが、今まで深く訊ねられたことはない。
その事は多分、何が起こってもグレイなら大丈夫という信頼の証であるような気がして、少しありがたかった。 勿論口には出さない。
場所はマルディアス大陸で最も大きな国、バファル帝国。 その辺境の、ラッタという小さな村。
帝国第二の都市であるブルエーレの南に位置し、イナーシー(内陸の海)からの漁と付近の山からの狩猟によって生計を得ている、本当に小さな村。
この近辺に妖精の宝玉があるという話を聞いてやって来たのだった。 まだ村に着いたばかりで、探索は明日、ということで宿を取ったのだ。
古き王国の習性か、小さな村にも他人を敬う心配りがあって、民族性が知られる。 宿もとても居心地がいいものだった。
古くて小さくて優しい宿は、夜にひっそりと静まり返る。 部屋の中には、共に冒険をしてきたジャンという青年が寝息を立てていた。
多分、彼はとうにグレイが帰ってきたことに気付いている。 気付いていて、寝息を立てているのだろう。 そういう男だ。
ぱっと服の埃を落として、布団を被った。 ぬくい。
目をつぶると、さっきまで眺めていた夜空が思い出される。 輝く星、輝く月、紡ぐ風。 全てが冷たい。
「刀の声」が聞こえたのは、村に入る直前くらいからだった。
夕日が山の向こうへ沈み込もうとしているその時、ふと頭痛と共に聴こえた。
それはまるで泣き声のように、冷たく暗くて、そして魅入られる声だった。
その声が聴こえた日は決まって眠れない。
そして、刀を持って近くの草原へ刀を振りに行くのだ。
グレイは、刀を「鬼哭」と名付けている。 錆びたその妖刀を鍛えてつかえるようにしたのはグレイ自身だった。
叩くたびに刀は輝きを増して、切るたびに刀は切れ味を増した。
そして刀はたびたび、グレイを「呼んだ」。
刀に呼ばれたグレイは夜、付近の刀を振ることのできる広場へ行く。
その時、必ず影が彼を待っている。
影は、グレイの姿をしている。
その技は彼の得意な技を使い、その体裁きは彼そのもの。
言うなれば、彼の幻影だった。
舞うように体を運び、疾風のようにこちらを切り裂くその剣を、グレイは常にギリギリで避け、そしてこちらの剣も必ずギリギリで避けられた。
いや、そうなっているように、他人には見えただろう。
グレイには分かっていた。 こちらが本当にギリギリで、まぐれの様に避けているのに対し、相手は全てを見通したギリギリの回避だった。
必ず相手の方が、一歩だけ上なのだ。
集中すればするほど、早くすればするほど相手も強くなり、
そして、
斬られる。
斬られた場所に傷はない。 幻影なのだから。
ただ、彼の精神だけが傷つけられていく。 勝とうともがけばもがくほどに。
今日は心臓を貫かれた。 本来なら即死だろう。 前回は頭蓋を断たれた。 一瞬の油断をつかれた。 前々回は右手を切断された。 それはもう戦えないという事。
斬られれば斬られるほど影を呪い、影に勝とうとし、呼ばれなくても刀を振った。
影は常に目の前を付きまとい、その動きに勝つために様々な工夫をする。
滑らかに体を動かそうとし、早く刀を振ろうとし、強く体を当てようとし・・・。
刀に呼ばれるたび、心臓は膨張する。 今度こそ勝とうと、体が奮起する。
そして、
斬られる。
彼の闘争本能は、それでも諦めない。 その目は、さながら鬼の目のようになっていく・・・。
分かっていても、逃げることは出来ない。
俺は俺だから。
俺は俺だから。
脳裏に二度呟くと、やっと眠りに落ちることが出来た。
さっきまで眺めていた夜空が広がっているように感じた。
輝く星、輝く月、紡ぐ風。
そこは全てが涼しかった。
翌朝、食事のためにミリアムに起こされた。
「ちょっと、まだ寝てるの!? もう太陽上がっちゃったよ!」
朝からハイな声が部屋に響く。
「ジャンも! 朝ごはん食べちゃうよ。」
「お~っと、もう起きましたよ~~♪」
ミリアムの声を聞いてジャンが軽快に布団から飛び出る。 朝ごはんと聞くとこれだ。
「はい、お利口さん♪ 下で待ってて。」
「分かりました~♪」
夫婦漫才のようなやりとりをしている。 まだ眠いこちらの頭によく響く。 うるさい。
「グーレーイ! まだ寝てるの? もう出発の時間も近いよっ。」
もぞもぞと起きだす。 確かに日は高い。 大分寝たようだが、眠りが浅かったのだろうか。 目が霞む。
「うわ! ひっどい顔。 ちょっと大丈夫なの?」
言われて鏡を見る。
・・・。 ひどい顔だ。 目の下が青い。
「大丈夫? 明日出発でもいいけど・・・」
「水を浴びてくる。」
一声残して、グレイは下へ向かった。 手早く服を着て、階段を下りる背中へ声が追ってくる。
「ちょっと! ごはんは!?」
「残しておてくれ。」
「何よ、もう!」
プンスカと怒っているであろうミリアムの顔を想像しながら、グレイは外へ出た。
今日は森の中への探索の初日。 あまりウダウダしている訳にもいかない。
そもそもは、「精霊の宝玉」の話をミリアムがどこからか聞いてきたのが始まりだった。
その語呂に乙女心を揺さぶられたのか、終始ノリノリで話すミリアム。 そのミリアムを見るのが楽しいのか、同じくノリノリのジャン。
やる事も行くあてもなかったグレイは、そのままその話を呑んだ。
以前ハゲの冒険者と別れて、そしてジャンが密偵の仕事を失敗して以来、冒険をするときは大体この三人で固まる。 少し前まで、もう一人いたのだけれども。
任務に失敗したジャンは暫く謹慎処分にされたらしい。 やることもないので冒険をしているという感じだ。 持ち前の気楽さからか、ミリアムと至極仲がいい。 悪い面子ではない。
水を浴びていると、昨夜刺された(筈の)胸がひやりとした。 瞬間、闘気が体中を満たす。
奥歯がきりきりと音を立て始める。 幻影が目の前をちらつき始める。 目がそれを追い始める。 研ぎ澄まされていく。
少しずつ、グレイは体を動かした。 前へ、後ろへ、突き、斬り、返す。
朝の日課だ。 日が体を温めて心地いい。
そうして、最後の踏み込みをしようとした時、
「ああグレイ、また裸踊りか。 お前のごはん俺が食べちゃったぞ。」
その踏み込みはまっすぐジャンへと向かった。
PR